昭和42年6月3日  夜の御祈念



  神様の本当のおかげを下さろうとするおかげを頂くためには、え~、神様に本気で私共におかげを受けさせようと、その気になってもらわなければおかげは受けられるもんではありません、神様が「この氏子に一つおかげを頂かしてやろう」と「授けてやろう」と、という気に神様がなって下さらなければ、おかげを頂けるもんじゃない、言うならば、神様はいつも、おぉ向こうを向いてござるようなもの、ですから、教祖の神様はそこんところを、「どうぞ、お~、お向きを変えて下され、お向きを変えて下され」という風な実意な生き方で、え~、神様に接しられた、当時、金神様と、(?)一般の、あら者が、恐れおののいた、言うなら、あ~、悪神邪神とまでは言わなくても、荒神様として、恐れおののいておったという時代、今でもやっぱり、金神様をそういう風に頂いておる人もありますね、ところがその金神様という方は、知って向かえば、あ~、命を取る、知らずに向こうても、根を取るというほどしのあらたかな霊験を与えなさることの出来なさる神様であるということを、教祖は、教祖のお考えの中にです、そのように素晴らしい力、働きを持ってござる神様であるから、人間氏子がそこんところを実意丁寧に、真実を持って、この神様に打ち向こうていったら、真実を持って、どうぞ、お~、ぶつかっていったら、ね、命をお取りなさるぐらいの神様ならば、命をまた与えて下さるようなおかげも下さるに違いはないというのが、教祖の金神に対する一つの神観であった、ね、そういう風に神様を見ておられた、そこで、え~次々と七墓を築かれるような難儀な事が続きましたけれども、それは凡夫のことで相分かりませず、どこにお粗末御無礼があったらやら分からん、ね、ですから、あそこんところを平に平にお許し下されという、定時制を持ってお詫びしぬかれて、そして、「私の身で出来ますことならば、どういう修行でもどういう改まりでもさして頂きます」というようにです、実意を持って、真実を持って神様へぶつかっておいでられた、そこに、金神様とばかり思うておられたその神様が、金乃神様に変れられ、最後に天地金乃神という、それこそ美顔溢れるばかりの、神様でおありになったと、「どうぞ氏子信心して、おかげを受けてくれよ」とおっしゃる、思いだけしかおありにならない神様であることが分かられた、ね、そこから神の頼みともなり、金光大神がそれをお受けになることにもなり、そして金光教という信心が、生まれてきたんです、ですから私共がその神様に向かってからでも、私共がですね、そういうおかげをうんなら「受けてくれよ」とおっしゃる神様、ただ「おかげを受けてくれよ」だけじゃおっしゃってない、「どうぞその身から打ち込んだ信心」とか、ね、「どうぞ信心しておかげを受けてくれよ」とか、っていう風にその、「その身から打ち込んだ信心をしてくれ」とか、ね、「どうぞその身から」とか、ね、「真心で」とかと、「一心で」とか、ね、というような言葉を持って、神様へ向かう、言わば、すべと言うか、向かう姿勢というものを、示しておって下さるのです、ですから私共が本当に一心になろうと、ね、神様にどうでもおかげ頂かして頂こうというその、一心というものがです、結局私共もその気にならなければいけないということなんです、ね、本気でおかげを受けようという気にならなければいけないて、そこで本気でおかげを受けるための、どういうあり方にならして頂いたら良いかということになるのです、これはですねどんなに、例えばなら私の家族なら家族の方の者にでも、う~ん、私は申しませんけれど、まあ心の中でいっつもそれがもやもやしておるんですよ、例えばお風呂入りますともう誰が入った後に行って入っても、その、いにょ~、汚してあるんですね、いっぱい、洗い桶はあっちに回りこっちに回る、もう本当に誰が入っても気持ちの良いように、上がる時にもし時間があるならフタでもさしてもろうとくとか、ね、きちっと洗い桶は洗い、洗いおいといて、きちっと整頓して、え~、裏返しにしておくとか、例えば風呂ん、の中のこと一つですらが、それなのですからです、とてもですね、その~、なかなか難しい事なのだ、それで私が一人一人やかましい言うたからと言うて出来るこってはないです、これがもう一人一人の者がです、ね、その気になるより他にないのです、ね、私はご信者さん方に、「さあ入り口の履き物はきちっと並べて上がりなさいよ」と、といかっ、いかに言うてもです、一人一人がその気にならなければ整頓が出来るもんじゃないです、いわゆるその気になるということはです、難しいことじゃないのですけれどね、風呂から上がってから自分の洗った後をザブッと流しておいて、ね、石鹸やらちょっとこう水を切って、そしていぶっ、その湯置きをちょっとこうやって、きちっと整頓して、こうやって上がってくるのですけん自分も気持ちが良い、後で入った者も気持ちが良いのですから、そう自分もしようと思うたら、誰~でも出来んことはないのです、洗面所に行きゃ洗面所、便所に行きゃ便所、台所に行きゃ台所、と例えば、私が思うように整頓の出けておるというようなことはまず少ないです、ね、それは、(?)誰っ、誰かがしよるに違いないです、けれども何人かがそれを乱して行くもんですから、何時まで経ったっちゃ整頓が出来るはずがないのです、結局それぞれがその気にならないからなんですよ、ですからその気になるということはですね、難しいこっちゃないです。
  私今日は、う~ん、拝詞を奏上さして頂く時に、途中ちょっと切ってみたんですよ、ね、そしたら拝詞を唱えておるなら、小さい声でちちの声が一つ聞こえただけだった、してみると皆がまだ覚えてないということになるのじゃないでしょうか、それこそ大祓いだったら(?)、その気になったら一晩で覚えれるもんです、その気になったら、私共はあの兵隊の時分にですね、あの長い例えば、あの暗記物なんかでもですね、もう何時間かで覚えたです、覚えなければ大変だと思うもんですから、その気になるからなんですよ、ね、私は神様はですね、本当におかげを頂かせようというその気になって下さるためにはです、まず私共がその気にならなければ駄目だということ、私がいくら、ね、家族中の者に、信者さん全部にです、「ああだこうだ、こうしなければ」と言うてもです、言うた時だけ良し出けたにしましても、一人がその気にならなかったらもう乱れるのですよ、ね、今私、こちらへ、まいります時に、丁度テレビがあっておった、ところがもう御祈念の時間だから、「テレビ切らないか」と、ね、言えば、私が言えば、うんなら切ってから立ち上がってくるんです、けれども言わなかったら見ておるんです、その気になっていないのですよ、御祈念というものを、例えば私なら家族の者がです、このようなおかげを頂いて、せめて朝晩の御祈念ぐらい出ら、出らしてもらわなければ、晩ぐらい本当に今日一日のお礼を申し上げなければ、という気持ちに、その気になっていないから、出来る事が出来んのです、そして乱れたことになってくる、ね、丁度そのテレビの、お~、ところやっておる時ですね、私袴履きながら、ちょっとこう、あの茶の間で、あの袴履いておりましたから、その映画見るともなしに見せて頂きよった、洋劇やなんかあの、黒人の人が出とる映画であった、なんか外交官かなんかのようですね、黒人の、それがその、その奥さんという人が、その主人のその外交官のでしょう、その方に言うておる言葉がですね、こういうことを言うておるんですよ、「あなたの言うておられること、行のうておられることがですね、ね、あなたのためにはならなければ祖国のためにもなりませんって、例えて言うならば、あなたはあの人にそう親切にしてやろうとしておられるけれども」そう、そこにきは分かりません、例えば私は(?)で付き合うわけですけれども、ね、悪いことでは分かっておるです、そういうになったらしいんです、「あの人にあなたは親切にしておられるようですけれども、それが祖国、どこどこの国のためのなに、祖国のためにもなるものでもなからなければ、あなたのためににもなるものではない」という、そこんところをちょっと耳に挟んだんですけれどね、私共言うておること、しておることがです、安っぽい親切、いかにも自分は親切にしておるようであるけれどもです、ね、はたしてそれがあなたのためになるのか、それが本当に神様の喜んで下さるようなことになっておるのか、私はですね、そこ、そういうところをですね、日々その気にならなければいけないと思うのです、今私が言うておること、思うておること、行のうておること、それがあなたのためにどれだけなるか、自分自身のために、しかもそれがです、ね、祖国という意味じゃない、それがです、いかに、どれほど神様が喜び頂けれることになるのか、ね、自分が今しておること、行のうておること、思うておること、それが、ね、うんならそれが私のためにどれだけプラスするかと、自分自身のために、それをどれほど神様に、感動を呼ぶような、ことに、神様の機感に叶うことになるのかと、ということをです私は思うてみてです、ね、そこんところをです、私はその気になってですね、それを頂いておるにしろ、を、思い出さして頂いてから、「ここはこうあるべきだここはこうするべきだ、こういうようなことはしても何にもならんことだ」ということをです、自問自答さして頂いての日々、その気にならなければですね、もう例えば今の例を持って申しますように、お風呂の中の整頓一つが出来ませんのです、ね、家族中の者がその気にならなければ、ならその気になるということは難しいことじゃないって、(?)です、その気になって、うんなら大祓いを覚えよう、拝詞を覚えようと思うたら、ほんなこてですね、一晩ででん十分覚えられるのですよ、その気になったら、それを五年経ったっちゃ十年経ったっちゃまぁだ大祓いいっちょが上がらんといったようなことでですね、おかげの頂けれるはずがないですね、そうでしょうが、その気にならないからです、だから神様もまた、その気になって下さらんのです、ね。
  家の中に整頓一つでもです、家族の者がその気になったら、いつも整頓さして頂いて、いつも言わば、ある中心になってお掃除しておる人達がどのくらい(?)にあるか分からん、どのくらい皆が快適な生活が出来るか分からん、どの部屋に行っても散らかっておる、どの部屋に行っても乱れておる、ね、例えばなら電気なら電気を使う時でもそうですよ、一人でいかに私が、まあ皆が付けた後から片っ端から消えて、消らして歩くんですよ、ね、例えばこの程度でも十分やっていけれるに、多くのものをパチパチっとその、部屋いっぱいにつけなければ、気がすまんというのじゃなくてから、もう平気でやってるんです、その気になっていないからです、ね。
  神様の心に叶うということをです、私共が本気で行じようとする時、それがどういう、どういう些細なことでも、見逃してはならん、その気になれば、楽に気持ち良く、しかも自他共に、おかげの頂けれる道があるんだけれども、その気にならんために、皆不愉快な思いをしなければならない、そして家一家中が(ろくそほうがい?)になってしまう、それがもう当たり前のようになってくる、恐ろしいことだ、ね、これは家の片づけだけのことじゃありません、信心のことだってそうなんです、自分の心の整頓というものをです、ね、汚れ、汚れっぱなししておるともう乱れておることが気にならなくなってくるです、ね、そしてそれが当たり前のようになってくるです、恐ろしいことなんでうす、ね、私共が本当に、やはりその気になっておかげを頂きたいと思うならばです、神様もまたその気になっておかげを頂かして下さろうとする働きが必ずあるです、私共がその気にならんから、何時まで経ってもそして、「おかげを頂きたいおかげを頂きたい」とそこんところだけを見ておったってはおかげを頂けるはずがない、おかげを頂きたいなら本当に、おかげを頂けれる体制を作らなきゃいけない、それにはその気に私共がならしてもろうたらです、なれんこっちゃない見やすいっ、難しいことじゃない、言うなら見やすいことだと、しかもそれを成して行くということがです、気持ちの良いことでもありゃぁ、有り難いことでもあるということですよね。                                              どうぞ。